エクスプローラーズクラブの冒険

エクスプローラーズクラブでの冒険について、当事者たちが綴るブログです。

プロってなんだよ

プロってなんだよ。

たまに思う。たまに、というか、よく思う。ぼくは18歳くらいの頃「仕事どうしようかな」とさんざん考えた時期がある。そこで導いた結論は笑える。「貴乃花(当時は貴花田という名前だった)とか、いいよなぁ」と。

なんて失礼な話なんだ、と今では思うのだけど当時はそう思っていた。

自分でやるべきことを自分で見つけることに苦しんでいたぼくは「これを背負うべき」と決められている人がうらやましかったのだ。

いまでも仕事のカバンのなかに、その頃に書き殴っているノートが入っている。本を読んだときのメモが多い。ぼくは高校を卒業してから仕事をはじめ、そのあとに大学に行ってサラリーマンになり、いまは自営業だ。

サラリーマンを辞めたとき「空って高いんだな」と思った。日本で空を見上げる機会はそうそうない。でも見上げると、高いし、あおい。

当時働いていた会社での仕事は大好きで、自分でもよく働いていたと思う。「不夜城」と揶揄された異常に忙しい特別チームにアサインされ(夜中3時から霞が関と打合せが始まる)、タクシー券が使い放題だった。それでも家に帰るのが面倒くさくなって、同期5人で職場の近くにマンションを借りた。私服で通える部署で、平日は雑魚寝。じゃんけんで負けたヤツが週末、その週の全員の洗濯をする。たまに着ないといけないスーツは会社に置き、クリーニング屋にも取りに来てもらっていた。

その部署は大ヒット商品をつくり、事業計画担当チームにいたせいで、ぼくの辞表受理には一年かかった。企業は人材不足。人を離さない。最後の仕事は金融系の法人事業部で企画課長。やることは、日本を代表するファームとタッグを組んで、日本を代表する金融機関との訴訟対応だった。「辞表を出したのになんでこんな部署に来たんだ?」と思っていたら、前の部署で戦友とも呼べる隣のチームの上司格が二人そこにいた。「なんで呼んだんですか。辞表出したの知ってるでしょ」「他にこういうの、イヤイヤでもできる顔が浮かばなくて」サラリーマンは、あるレベルを超えるとこういう人事異動になる。人事部にチカラはない。事業部が恣意的に決める。

その一年、なにが辛かったかというと、スーツで9時に大手町に通うことだった。半蔵門線の混み具合は異常だ。案件は大きく3つあり「処理したら辞めます」と宣言して仕事に取り掛かる。そのうちのひとつは、マスコミ対応も含めての対応となった。知るか、そっちが悪い。痛み分けのようなカタチで決着がついたその案件の決裁をすべて終え(国への届けも含めて面倒くさすぎた)、人事部に退職のサインをしにいく。

そこで待っていたのも、寝泊まりしていた部署の隣の係長だった。「一年引っ張ってごめんな。飲みに行こう」17時くらいから会社の下の居酒屋に行った。「酔う前に、これサインして」退職後の機密保持と競合へ移籍しないという誓約書だ。行くわけがない。すぐサインした。この人とはのちに、3.11の震災で会う。震災対策本部長という肩書で疲れ切った顔をしていたけど、とつぜん訪問したらものすごく喜んでくれた。大学の寮の先輩が南相馬に実家があり、そのご両親の送り迎えをした後に仙台に寄ったのだ。大学から同じ会社に入った同期も、対策本部で働いていた。米沢からの日本酒を3人でのんだ。

つらつらと書いているのは、この会社に入ったときの話・そして入ってからの話をしたいからだ。そもそもぼくは、他の会社に行こうと思っていたし、いくつかの内定をもらっていた。でもこの会社に決めたのは「ある産業が勃興するタイミングで、いちばん根幹から触れると思ったから」だ。

当時はインターネット黎明期だった。インターネットを根幹から触れるのは、あのときの環境ではこの会社しかなかった。

ぼくは大学で寮に住んでいた。親に対する意地みたいなもので「学費はすべて自分で出す」と宣言したので節約のためだ。月の家賃、8,000円。なんてありがたい。3人部屋もたのしかった。2年生の頃に、パソコンおたくの先輩と同室になった。対面で人と話すのは苦手な人だったが、なぜか僕とはウマが合い、よく先輩のパソコンを使わせてもらっていた。当時のパソコンというのは100万円くらいした。留学生も多かったその寮でぼくは、3年生の頃に寮長をやる。シカゴ大学の学生がつくったチャルメラというUNIXメーラーで、帰国した彼らと連絡をとるのもたのしかった。

就職がちらついてきた春、貴花田問題について静かにずっと悩んでいたが、ある日、気づく。これだ、と。

「いま、インターネット産業にコミットすれば、自分は『創る側』の人間として、それがたとえ末端の末端の使えない人間としてであろうが、『創る側』として参加できる」と。

プロや権威と呼ばれる人がいて、そいつらのレールに従う人生なんて、まっぴらごめんだ。そのことに気づいた。今は信じられないかもしれないが、インターネットは当時、可能性以外にはなにもなかった。

子供の頃、任天堂という会社がファミコンという機械を出した。あの時期から子供たちの序列は変わる。それまではスポーツがデキるヤツが偉かったのが、ファミコンの最新ゲームを入手できるヤツが偉くなった。ぼくはファミコンのことを思い出していた。

「いま、誰かがインターネットというものをファミコンにしようとしている」

と思ったのだ。あのときも誰かが仕掛けたのだ。個人の意思なのか集合意識のようなものなのか、それはわからないけれども、誰かが仕掛けた。

いまインターネットという場所に参加すれば、『創る側』に行ける。

このことはぼくにとっては大きな発見だった。ぼくはこのゲームに賭けることにして、そういう会社に入った。結果は大成功だったと思っている。日本中でそして世界的にも、他ではできないことを、たくさんやらせてもらった。

関連してもうひとつある。「適材適所」とよくいう。ぼくはこの言葉は嘘だと思っている。嘘というか、舌足らずだ。

正しくは「適材適所、適時」だ。「適切な時期に、適切な場所にいれば、適切な人格になる」

こんな感じの理解で良いだろうか。人がその能力を発揮するのは、環境だ。環境というのは場所であり、タイミングである。たとえば今、ぼくが大学4年生だったとしても、最初に選んだ会社には絶対に行かない。絶対に。あの時期だから選んだのだ。だから思う。

プロなんて「適切な時期に、最初にいて猛烈に頑張れば、誰でもなれる」と。

それらはいつか伝統となり権威となり、継承という遊びになる。でもなにかの分野の概念、いや、その分野そのものを創りあげるのは、それこそ素人にしかできない。徒手空拳の素人。当たり前だ。いま、ないものだから。プロもへったくれもない。プロなんてのは、誰かのフランチャイズに過ぎない

ぼくたちエクスプローラーズクラブがやっている「冒険」ということはそういうことで、そんな模様や過程をこのブログでお伝えしたい。このことはまだ、誤解されて伝わるように思うし、そもそも伝わりにくいようにも思うし、でも意外に、伝わる人にはすぐに伝わるんじゃないか、とも思っている。