エクスプローラーズクラブの冒険

エクスプローラーズクラブでの冒険について、当事者たちが綴るブログです。

オーシャンズに最も遠い人間の、はじまり。

なんとかしてその日の仕事をやっつけて、ある雨の日、芦屋の打出駅というホームに足を下ろしたかれは、改札口で待つ爽やかな笑顔の男性に声を掛けた。
 
「カワムラさんですか?」
「うん。君がアマカワくん?」
 
お互いにメッセンジャーアプリを見合い、はじめてではあるけれど、あまりはじめての気がしない対面を確認する。こうして会話するのは初めてですね。クラブにジョインしたときにメッセンジャーで会話して以来、京都でカワムラさんのコメントをチラチラ見ることはありましたけど。
 
「そやね〜」
 
アマカワは今日、新幹線に乗って愛知から芦屋へとやってきた。人生で2度目の乗車だという。新幹線に乗るのが2度目なんて、今までいったいどんな人生を送っていたのだろうか。アマカワが海峡横断を志してから、実に一ヶ月あまり、ようやく今日がヨット初乗船である。
 
アマカワの目の前にいる人は、京都に住んでいるカワムラ。名門美術学校の教師をつとめたあと、モナコに移住し、いまは再び京都の嵐山でビジネスをしている。長身で前髪を上げている天パ気味の人。アマカワは、どこか一般人離れした独特な雰囲気を醸し出しているカワムラとの対面に、すこし緊張しながらも、同時にどことなく安心感を持った。カワムラはやさしい男だ。かつて、宇宙に風船を飛ばした
 
「前回雨で中止になった蒲郡の乗船会に向けて、準備はしてきたので、大丈夫だと思いますけど・・」
 
本当なら、一週間ほど前に愛知の蒲郡で記念すべき初乗船を果たすはずだった。生憎の雨で、中止。しかし、「とにかくはやくヨットに乗らなければ!」 と、その後まもなく告知された芦屋での乗船会に参加を決めた。こんな簡単なことを決めるのに、だいぶ悩んだアマカワは今、兵庫県立海洋体育館に立っている。
 
本当ならこの日は愛知で約束があった。本当なら、という表現は適切ではない。アマカワにとって本当であろうがなかろうが、2月下旬に東京で開催されるガラパーティーに向けた大切な会合が名古屋で行われていた。そこに参加予定だったのを、ドタキャンしてアマカワは、芦屋にいた。
 
アマカワは、この手のドタキャンを事前に関係者にほのめかす。来るのか来ないのかどっちでもいいのだけどはっきりしろ、という気持ちを操るほどの色気はなく、主催者の心配を無視しているわけでもなく、直前までどっちにも行くつもりで考える男だ。考えるだけでなにもしないのだけど、みんなはアマカワのそういうところに、すこし甘い。名前はアマカワだけに仕方ない。
 
いずれにせよ「食い気よりヨット」ではないけれど、横断するならば一日でもはやくヨットに乗っておきたい、その思いが勝ったのだろう。そこはそれなりにやる気があるわけで、準備はしっかりしていた。ウェットスーツに、マリンシューズ、タオル、帽子、ウインドブレーカー、笛。すべてに抜かりはない。基礎知識であるロープワーク、もやい結びやエイトノットもバッチリだ。アマカワのこれまでの人生で、なにかに向けてこれほど準備したことはなかった。
 
「ウインドブレーカーって僕、あんまり聞いたことなかったんですけど、これでよかったんですかね?」
 
アマカワは、着ている黒のダウンジャケット(本人はウインドブレーカーのつもりである)を指して質問した。「うーん、それだと海水を含むからやめた方がいいかもね。他のものは持ってきてないの?」「へ? いや、あの、これだけですけど・・」アマカワの背中に冷汗がつたる。カワムラはときに、有無を言わさない威厳のようなものを感じさせる。
 
確かに、中に綿があって水を含みそうだが、募集の文章にはウインドブレーカーとあった。ネットで調べたら「風通しを防ぐジャケット」と書いてあったので、「じゃあ問題ないな」と思って着てきた次第である。
 
「あー、そうなんだ」
「僕、どうすればいいですかね?」
「今日はウェットスーツだけの方がいいだろうね」
「あー、ですかね・・」(背中につたる冷汗がちょっと増える)
「ウインドブレーカーってあったんで、風防ぐから、これでいいもんかと」
「事前に聞いておくべきだったね。とにかくそれで乗るのは危ない。沈した時、水を含んじゃうから」
 
にべもなくヒロミは言った。準備はバッチリのはずである。あいかわらず、しとしとと雨が降っている。2月だ。寒い。
 
半年後、真夏のハワイでモロカイ海峡と呼ばれる場所をディンギーで渡る男の話は、この日、ようやく動き始める。