エクスプローラーズクラブの冒険

エクスプローラーズクラブでの冒険について、当事者たちが綴るブログです。

目次:このブログにお越しいただいた皆さまへ

このブログにお越しいただき、ありがとうございます。

こちらのブログは、エクスプローラーズクラブで冒険をした人間(@explore03862063 ほか)の記録用です。時系列を意識せずに書いているので、ゆっくりとご回遊いただけると幸いです。そのうち、時系列のストーリーとしてまとめたいと考えています。 

なお、6月16日(日)に東京でエクスプローラーズクラブ主催の『第10回 人生を愉しむシンポジウム』(無料)を開催します。このブログを読んでいただいて、エクスプローラーズクラブにご興味をお持ちの方はぜひお越しください。

『第10回 人生を愉しむシンポジウム』
 https://www.explorersclub.jp/posts/6187279/

  

0)エクスプローラーズクラブのこと 

1)EXPCヨット部『オーシャンズセブン

  1. ドーバー海峡
  2. 津軽海峡
  3. ジブラルタル海峡
  4. カタリーナ海峡
  5. クック海峡
  6. モロカイ海峡
  7. ノース海峡

2)宇宙プロジェクト

3)EXPCダンス部『200人でのデビュタント

 

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4)これから予定しているストーリー

  • 2年で6人のアイアンマン輩出
  • 『薔薇の舞踏会』でのトップ

 

99)エクスプローラーズクラブ公式アカウント

 ご興味をお持ちの方は、上記のいずれかをご覧いただけるとうれしいです。

 

未来から時間を流す

未来から時間を流す。クラブに入会して、ずっと考えていた言葉だ。

人生を変えようと思ってエクスプローラーズクラブに入会した。ただ、その答えは見えずにいた。そんな状況を打破したくて、人生は妄想から始まると思い、休みを利用してほとんど人とも会わず部屋に引き篭もり、ただただ理想の未来についてイメージしてみた。

自分が欲しい家や、毎日のどんな生活を送り、どんな女性が側に居て、どんな自分になりたいのか?

自分自身にひたすら問いた。

成功してお金持ちになりたいと思い、社長になった自分とかをイメージしてみたけど、どうもしっくりこなかった。なんか自分の中に制限をしてる感じがして、その枠を全部取っ払って思っきり妄想することにした。

どうせ人生は一度きりだ。本当に一度きりだ。

よく使われる言葉だけど、そのことを強烈に感じて人生を選択してる人がどれだけいるんだろうか?俺は思っきりその言葉を感じて人生を生きたい。人類なんかいくらでもいるのだから、思っきりそんな人生を全うする人間が1人ぐらいいてもいいと思った。

どこの国がいいかな?とかも考えてた。
どんな家に住みたいか?とネットでいろんな家を見たりもした。
どんな自分でいたいのか?といろんな人の写真を見たりもした。

風呂に入っていると、「ロサンゼルスが呼んでる!」ふと思った。まだ行ったことはなかったが、行ってみたいと思ってた街だ。だけど、ロサンゼルスで何をするのか?アメリカでIT企業でもするのか?まったくイメージが湧かなかった。

「ハリウッド?」
「ん、ハリウッドなのか?」

不意にそんなことを考えた。俺はサラリーマンだ。演技もやったこともない。それなのに何故かハリウッドが凄く気になった。当時は熱烈な映画好きでもなかった。

まったくのゼロベースなのに、凄くハリウッドが気になった。

ハリウッド俳優ってどんな生活なんだろうかとイメージすると、プール付きのビバリーヒルズの豪邸に住んで、毎朝トレーニングして、撮影場所に向かい仕事が終わると、綺麗な女性達とパーティーをして遊んでいる!そんな一日だった。

「これ、俺が欲しいモノ全部入ってる!」

ハリウッド俳優なら、めちゃくちゃモテるやろう!今まで遊んだこともないようないい女達と遊びたい!ハリウッド女優達と遊べるなんて最高だ。カッコよくて、いい女を抱く。その最高峰に立ちたい。

俺の妄想と欲望はMAXに広がった。

俳優がどんなことをやるのかよく分からなかったけれど、なんかむちゃくちゃ楽しい人生がイメージが出来た。超安定型の大手サラリーマンからハリウッド俳優。きっと周りも反対するし、家族も心配する。

だけど、「過去を活かさず未来の人生を生きる」という言葉の通りに生きようと思った。

そんなハリウッドへの道を歩み始めた俺に部長から、Monte-Carlo号の管理人を探しているという相談が舞い込んで来た。

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前回(さよなら、カタリーナ海峡) <-> つづく
edit by @explore03862063

さよなら、カタリーナ海峡

2018年4月28日夜。酪農家は緊張していた。

カタリーナチーム6名と、ヨット部メンバーによるミーティングが行われた。議題は「5月7日に迫ったカタリーナ海峡決行について」だ。サポート艇に関しては「一艇確保できるかもしれない」という情報があった。

決めることはひとつ。

3名×2挺の6名体制でいくか、3名の1挺でいくか。

4月28日の夜、いろいろな条件を話していて「3名を選抜して決行する」という案におおきく話が傾き、選抜されることになった。

そのときまでに手を挙げていたメンバーは以下の6人だ。

・ノブさん:ヨットの経験はもっとも豊富。スキッパー(かじ取り)がうまい。グループのリーダー。
21歳:若いが、福岡・沖縄と飛び回り、練習を積んできた。ノブさんに次いで操船がうまい。
・クララ:英語が話せ、初期のヨット確保などに貢献した。
アマカワアメリカでの宿の手配など、プロジェクト後半で活躍をみせ始めた。
・ユリエ:操船がうまくない。グループの連絡用チャットへも出てこない。すぐ落ち込む。
・酪農家:操船がうまくない。ほとんど何もできない。

このなかから、3人が選ばれることになった。リーダーであるノブさんがメンバーを選んで行く。ノブさんは誰が見ても確定だった。あと2名。校長先生のようなノブさんは、その下手なジョークは封印して毅然として決める

最初に名前をあげられたのが、21歳。ショウタロウは、この一ヶ月で操船が格段にうまくなった。スキッパー・クルーのどちらもできる。ノブさんが疲れたとき、スキッパーの交代要因としてもカウントできた。

この選択は当たり前に思えた。カタリーナ海峡横断に挑戦できるのは、3名。あとひとり。

酪農家は、このとき、会社へ「カタリーナ海峡横断するので、休ませてください」と伝えて、無理やり一週間休みをもらっていた。東京のリベラルな会社とは異なり、山形のオーナー企業の会社だ。一日休むことでさえ渋い顔をされる。

頭を下げて、やっとやっと一週間の休みをもらっていた。

しかも「絶対カタリーナ海峡を渡ります」と仕事場でいい続けていた。毎日、毎日。その都度「お前ができるわけないだろ、わかったから仕事しろ」と笑われ続けた。だからこそここで外されれば、会社では「それみたことか」と笑いモノにされるのは必須であり、必ず残りたかった。渡ることができなければ、また、いつもの自分だ。酪農家のそんな思いとは関係なく、決断は下される。

ノブさんが次に呼んだ名前は、アマカワ。

落選した。そして、食い下がることもなかった。深夜2時を回っていた。

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エクスプローラーズクラブ『オーシャンズセブン』

前回(津軽海峡冬景色) <-> 次回(未来から時間を流す

text by カルア
edit by @explore03862063

津軽海峡冬景色

ドーバー2陣の解散後に思いついた『オーシャンズ・セブン』というヨット部のプロジェクト。

企画で盛り上がっているだけじゃ絶対にダメだ。すぐにやらないといけない。実際に見せないとみんなすぐに冷める。「日本国内でアクセスも楽だろう」という理由でその場ですぐに津軽海峡を渡ることに、ぼく、ツガルとウィンドサーファーは決めた。10月中旬だった。

エクスプローラーズクラブにとってこの津軽海峡縦断は、特別な想いがあった。ドーバー2陣で達成できなかった「創始者が直接参加しない、メンバーだけでおこなう初の冒険」を成功させることエクスプローラーズクラブにとって、ではないか。このメンバーにとって、であった。他のクラブメンバーはそれがいかに大変か、まったくわかっていなかった。

セーリングの技術には自信が芽生えていた二人は、外洋、それも海峡はかなりむずかしいことをあとで知るのだけど、このときはすでに渡れることを確信していた。「2人でやっても面白くないから」という理由で、女性のオペラ歌手をクルーに誘う。

津軽っていえば、『津軽海峡冬景色』だよね?

じゃ、彼女を入れよう。プロのオペラ歌手が、実際に冬の津軽海峡の真ん中で『津軽海峡冬景色』をアカペラでうたう。これおもしろくない?本人に打診もせずに、ノリだけでクルーを決めた。そして、ドーバー2陣解散時に最後の最後、スイスから熱いメッセージをくれた男も参戦することになる。

 


津軽海峡・冬景色 石川さゆり

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エクスプローラーズクラブ『オーシャンズセブン』

前回(泣いて肉をくらった21歳 ) <-> 次回(さよなら、カタリーナ海峡
edit by @explore03862063

泣いて肉をくらった21歳

目の前に広がる爽やかな空と淡い海。

ふたつの「あお」は、互いにぶつかり合うでもなく、ただ目の前で穏やかな時間を過ごしているのだ。崖の上から海を眺める21歳の若者は、その景色とは裏腹にまったく穏やかではなかった。

カタリーナ海峡。世界7大海峡の一つ。

海中にはサメなども潜んでいる危険な海峡。実際にその景色を肉眼で見ると、想像以上の迫力を感じずにはいられなかった。その迫力を目の当たりにしたときの、今まで味わったことの無い恐怖感。

人生でこんなに恐怖を感じたことは無い。人生でこんなに胸が苦しくなったことは無い。

ヨットで海峡横断するんだ!というワクワクが混じった決意と、「死ぬかもしれない」という恐怖感。そこから来る「本当にオレは渡って大丈夫なのか?」という思い。海を見たあと、21歳は、カタリーナ海峡に挑戦するクルーと食事に行った。すでにハリウッド俳優としての人生をはじめていたTOSHI奥様の出産を控えていた校長先生ノブ、そしてサポート艇に乗る部長。

米国人になったTOSHIが頼むアメリカン・サイズのステーキを頬張りながら、とつぜん、21歳は泣き出した。

大粒の涙が止まらない。21歳は自分で、「なんでこんなに泣いてるんだ?」と口にしながら、大人たちが呆れるほど空腹だけは満たしていた。怖いです。そういいながら涙を流し、半笑いし、肉をくう。

あるいは、空腹ではなかったのかもしれない。なにか、彼が自分でできるなにかの動きをすることで、懸命に平常心を保とうとしていたのだろうか。

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エクスプローラーズクラブ『オーシャンズセブン』

前回(異国での船さがし) <-> 次回(津軽海峡冬景色
edit by @explore03862063

異国での船さがし

2016年4月、ジブラルタル海峡縦断プロジェクトが発表され、そこに10名が手を挙げた。

経営者、OL、産婦人科医、モデル、モデルの夫、雇われ社長、フリーター、レースクイーンなど、職業は様々。東京、埼玉、愛知、静岡、福岡、佐賀と住んでるところも、年齢も20代から40代とバラバラ。ヨットに乗ったことないメンバーが6人。

メガミにとっては、そもそも「はじめまして」の人もいた。集まったメンバー10人と部長、ミカ副部長、ウィンドサーファーでFacebookグループをつくり、Skypeでミーティング。この初ミーティングでリーダーを決めたはずだが、メガミはそれが誰だったのかまったく思い出せない。いや、彼女以外のメンバーもそうあろう。最初10人だったメンバーは、最終的には4人になったのだから。

話を進めていくうちに、ヨットに乗る前に辞退する人も出てくる。お金や時間の問題だったり、家族の反対だったり、なにか起こるたびに辞退していく人が出てくる。メガミは前回のチャレンジの時はグダグダでしかなかったけど、今回は周りになんと言われていても、なにが起こっても渡るのは分かってた。

かならず渡ると決めていたのでなく、渡っている当日のイメージがはっきり見えていた。実際にジブラルタル海峡をわたった日、そのイメージした景色とゴールした場所の景色はおどろくほど似ていたという。

その理由は、海峡渡ったあとの夢を決めてたから。海峡横断は、次の夢のためへの過程でしかなかったからだ。最後に残った4人は、渡ったあとのことを決めていたメンバーで、辞退した人は海峡を渡ることがゴールになっていたような気がする。

少し脱線した。

リーダー、決行日、練習日、揃えるウェア、ヨーロッパからアフリカに行くのか・アフリカからヨーロッパに行くのか、航路、など決めることはたくさんあった。そして、もちろんヨットの勉強に加えて、当日併走してサポートしてくれるメンバーと現地で乗るヨット探しをしないといけなかった。

サポートメンバーとヨット探し。

当然のことだけど、『オーシャンズセブン』では、サポート挺を必ずつけた。ディンギーと並走してくれるクルーのことだ。そしてそもそも、ディンギーヨット自体を見つけなければいけない。日本で遊んでいるクラブの愛艇をスペインまでもっていくわけにはいかない。メガミは、中止となったノース海峡横断プロジェクトに手を挙げていたとき、このふたつを見つけないとなにも始まらないことが分かっていた。それがいちばんのハードルだということを嫌ほどわかっていた彼女は、全員でそこに注力することを力説し続けた。

そのサポートメンバーとヨット探しを通して、この海峡横断がどれだけアホでクレイジーなことなのかを知ることとなる。


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エクスプローラーズクラブ『オーシャンズセブン』

前回(渡米前のこと) <-> 次回(泣いて肉をくらった21歳
edit by @explore03862063

こはる日和

短かった髪を
大切に美しく伸ばし始めた。

気づけば2年。

ショートヘアはロングヘアーになった。

クローゼットをあけると
白いドレスが顔を見せる。

丁寧にメイクアップをし、にこりと鏡にほほえむところから一日がはじまる。

デビュタント。

わたしは日本ではじめて200名で開催される
デビュタントに参加することになっていた。

女性は白いドレス。
男性はタキシード。

全国から東京に集まり、映画『Shall we dance?』の舞台で、
ペアになりワルツを踊るのだ。

なんのために?
なんのためにこんなことをするのか?

ただのサークル活動?趣味?

いや。ただのサークル、趣味では
200名もの年齢も立場もさまざまな紳士淑女が全国から集まることはない。

そこには、大きな志、美しさ、日本人の価値を世界であげてやる。
という想いが垣間見える。

それはそれは美しい空間であり、
オレンジ色に煌めく光の下、ワルツを踊る
紳士淑女の表情はなんとも美しく、恍惚とする。

知っていたであろうか。

この日本で初めてのデビュタントの様子はYouTubeで世界へ発信されている。

🔍Bal de Japon

さあ、私たちと一緒に踊りませんか?
Would you like to dance with us?

わたしがダンスをはじめ、
2歳の娘はママの真似をして踊るようになりました。

そんなこはる日和。

プロってなんだよ

プロってなんだよ。

たまに思う。たまに、というか、よく思う。ぼくは18歳くらいの頃「仕事どうしようかな」とさんざん考えた時期がある。そこで導いた結論は笑える。「貴乃花(当時は貴花田という名前だった)とか、いいよなぁ」と。

なんて失礼な話なんだ、と今では思うのだけど当時はそう思っていた。

自分でやるべきことを自分で見つけることに苦しんでいたぼくは「これを背負うべき」と決められている人がうらやましかったのだ。

いまでも仕事のカバンのなかに、その頃に書き殴っているノートが入っている。本を読んだときのメモが多い。ぼくは高校を卒業してから仕事をはじめ、そのあとに大学に行ってサラリーマンになり、いまは自営業だ。

サラリーマンを辞めたとき「空って高いんだな」と思った。日本で空を見上げる機会はそうそうない。でも見上げると、高いし、あおい。

当時働いていた会社での仕事は大好きで、自分でもよく働いていたと思う。「不夜城」と揶揄された異常に忙しい特別チームにアサインされ(夜中3時から霞が関と打合せが始まる)、タクシー券が使い放題だった。それでも家に帰るのが面倒くさくなって、同期5人で職場の近くにマンションを借りた。私服で通える部署で、平日は雑魚寝。じゃんけんで負けたヤツが週末、その週の全員の洗濯をする。たまに着ないといけないスーツは会社に置き、クリーニング屋にも取りに来てもらっていた。

その部署は大ヒット商品をつくり、事業計画担当チームにいたせいで、ぼくの辞表受理には一年かかった。企業は人材不足。人を離さない。最後の仕事は金融系の法人事業部で企画課長。やることは、日本を代表するファームとタッグを組んで、日本を代表する金融機関との訴訟対応だった。「辞表を出したのになんでこんな部署に来たんだ?」と思っていたら、前の部署で戦友とも呼べる隣のチームの上司格が二人そこにいた。「なんで呼んだんですか。辞表出したの知ってるでしょ」「他にこういうの、イヤイヤでもできる顔が浮かばなくて」サラリーマンは、あるレベルを超えるとこういう人事異動になる。人事部にチカラはない。事業部が恣意的に決める。

その一年、なにが辛かったかというと、スーツで9時に大手町に通うことだった。半蔵門線の混み具合は異常だ。案件は大きく3つあり「処理したら辞めます」と宣言して仕事に取り掛かる。そのうちのひとつは、マスコミ対応も含めての対応となった。知るか、そっちが悪い。痛み分けのようなカタチで決着がついたその案件の決裁をすべて終え(国への届けも含めて面倒くさすぎた)、人事部に退職のサインをしにいく。

そこで待っていたのも、寝泊まりしていた部署の隣の係長だった。「一年引っ張ってごめんな。飲みに行こう」17時くらいから会社の下の居酒屋に行った。「酔う前に、これサインして」退職後の機密保持と競合へ移籍しないという誓約書だ。行くわけがない。すぐサインした。この人とはのちに、3.11の震災で会う。震災対策本部長という肩書で疲れ切った顔をしていたけど、とつぜん訪問したらものすごく喜んでくれた。大学の寮の先輩が南相馬に実家があり、そのご両親の送り迎えをした後に仙台に寄ったのだ。大学から同じ会社に入った同期も、対策本部で働いていた。米沢からの日本酒を3人でのんだ。

つらつらと書いているのは、この会社に入ったときの話・そして入ってからの話をしたいからだ。そもそもぼくは、他の会社に行こうと思っていたし、いくつかの内定をもらっていた。でもこの会社に決めたのは「ある産業が勃興するタイミングで、いちばん根幹から触れると思ったから」だ。

当時はインターネット黎明期だった。インターネットを根幹から触れるのは、あのときの環境ではこの会社しかなかった。

ぼくは大学で寮に住んでいた。親に対する意地みたいなもので「学費はすべて自分で出す」と宣言したので節約のためだ。月の家賃、8,000円。なんてありがたい。3人部屋もたのしかった。2年生の頃に、パソコンおたくの先輩と同室になった。対面で人と話すのは苦手な人だったが、なぜか僕とはウマが合い、よく先輩のパソコンを使わせてもらっていた。当時のパソコンというのは100万円くらいした。留学生も多かったその寮でぼくは、3年生の頃に寮長をやる。シカゴ大学の学生がつくったチャルメラというUNIXメーラーで、帰国した彼らと連絡をとるのもたのしかった。

就職がちらついてきた春、貴花田問題について静かにずっと悩んでいたが、ある日、気づく。これだ、と。

「いま、インターネット産業にコミットすれば、自分は『創る側』の人間として、それがたとえ末端の末端の使えない人間としてであろうが、『創る側』として参加できる」と。

プロや権威と呼ばれる人がいて、そいつらのレールに従う人生なんて、まっぴらごめんだ。そのことに気づいた。今は信じられないかもしれないが、インターネットは当時、可能性以外にはなにもなかった。

子供の頃、任天堂という会社がファミコンという機械を出した。あの時期から子供たちの序列は変わる。それまではスポーツがデキるヤツが偉かったのが、ファミコンの最新ゲームを入手できるヤツが偉くなった。ぼくはファミコンのことを思い出していた。

「いま、誰かがインターネットというものをファミコンにしようとしている」

と思ったのだ。あのときも誰かが仕掛けたのだ。個人の意思なのか集合意識のようなものなのか、それはわからないけれども、誰かが仕掛けた。

いまインターネットという場所に参加すれば、『創る側』に行ける。

このことはぼくにとっては大きな発見だった。ぼくはこのゲームに賭けることにして、そういう会社に入った。結果は大成功だったと思っている。日本中でそして世界的にも、他ではできないことを、たくさんやらせてもらった。

関連してもうひとつある。「適材適所」とよくいう。ぼくはこの言葉は嘘だと思っている。嘘というか、舌足らずだ。

正しくは「適材適所、適時」だ。「適切な時期に、適切な場所にいれば、適切な人格になる」

こんな感じの理解で良いだろうか。人がその能力を発揮するのは、環境だ。環境というのは場所であり、タイミングである。たとえば今、ぼくが大学4年生だったとしても、最初に選んだ会社には絶対に行かない。絶対に。あの時期だから選んだのだ。だから思う。

プロなんて「適切な時期に、最初にいて猛烈に頑張れば、誰でもなれる」と。

それらはいつか伝統となり権威となり、継承という遊びになる。でもなにかの分野の概念、いや、その分野そのものを創りあげるのは、それこそ素人にしかできない。徒手空拳の素人。当たり前だ。いま、ないものだから。プロもへったくれもない。プロなんてのは、誰かのフランチャイズに過ぎない

ぼくたちエクスプローラーズクラブがやっている「冒険」ということはそういうことで、そんな模様や過程をこのブログでお伝えしたい。このことはまだ、誤解されて伝わるように思うし、そもそも伝わりにくいようにも思うし、でも意外に、伝わる人にはすぐに伝わるんじゃないか、とも思っている。